2020/03/30『過去の日記』

このブログの前にやっていた1,000文字限定の「法話な日記(さるさる日記システム使用)」を読み返しているとなかなか面白いので、時々ここに載せていこうと思います。

今回は、2009/10/18/08:23:54に更新した内容を少し加筆修正して、最後の部分に「いま思うこと」を追記してお届けします。

200910/18/『自分の限界を決めるなかれ』

私は高校から高野山へ行きました。そこでは「あれもこれも全部出来るのが坊さんである」と教え込まれました。半人前でも任せられるとやらざるをえません。だから全力で取り組む。すると「俺の本業はなに?」と疑問が浮かんできます。すると「全部やるのが坊さん」とまた言われて、他の作業が追加される。

先日、ご婦人が相談にみえられました。いわゆるキャリアってタイプ。いろんな苦労もしたし、もう落ち着こうと考え、のんびりカフェを始められた。でもカフェの経営がなかなか軌道に乗らない。なのに、昔の経験や人脈を頼って、いろんな方面に担ぎ出されてしまう。するとカフェはますます疎かになってしまう。月末の光熱費さえ心配する毎日なのに、相談は数千万というプロジェクト。本業がままならないのに、他人の手伝いをしている場合か?というお悩み。

これってフツーなら「カフェに専念なさい」と導きます。でも高野山だとそうは言わない。「ぜんぶやっちゃえば」と説いてしまいます。カフェがヒマならこれ幸いじゃない、どんどん他のお世話をすればいい。忙しくなればお金は使わないし、悩む時間さえなくなります。どんどんやってパニックになればいい。ただ、出来る器だから人は頼るのです。そしてここからがミソ……カフェも頑張っちゃうのです。カフェをやりながら他も欲張る。でも本業はカフェじゃない……。

本業はその人の持つ全てのキャリアなのです。たまたまカフェの経営に比重があるだけで、その人の魅力が本業。こう考えればどんな些細な相談も、その人にとっては顧客です。器用で冴えてると自負する人に限って、区別や分別をつけたがります。一見、整理出来てテキパキしているような錯覚に陥りますが、実際は1つ滞ると連鎖が拡がって調子を落としてしまいます。

その人全てが本業……これほど魅力的なことはないのです。何でも興味を持ってなんでもやっちゃう。全部、お金が稼げる技術を持てば、何にだって応用が利く。多用充実は遠回りのようで近道だったりするのです

 

[追記〜いま思うこと]多忙になるとパニックになる人がいます。今でもそんな相談ばかりです。でも相談する時間があるのだから決して大したことじゃない(笑)今回のコロナ騒動も、待機や在宅を命じられたならダラダラ過ごさず、今こそ修練すべきだと思います。私なんか時間が許すかぎり作品を作りまくっています……企画展は流れたのにねwww

2020/03/25『ゼロを取り戻せ』

この時世、こと国難とも言える騒動と直面してしまうと、なにか天からの「警告」ではあるまいか?などと考えてしまいます。

わたしのように五体満足、さして悩みもなく、のほほんと生きている者でさえ、窮地を感じてしまうのだら、病に伏せる方や経済に困窮なさっている方はさぞお辛く、不安多き日々を送っておられることでしょう。

「生き急ぐ」という言葉があります。命を無駄にするな、丁寧に生きよ、という意味で使われることが多いと思います。この情報過多、そして飽食時代、この言葉を当てはめると、昔のそれとは少し違うような気がします。

例えば、食品について。よく「季節感がなくなった」、いわゆる「旬」が消えたと言われます。それはなぜか?と突き詰めると「常に口にしたい」という欲望からです。

またコンビニなど24時間、四六時中営業をしています。営業しているということは、こちらが求めているのです。しかしよくよく考えてみたら、わたしを例にとりますと、年に何回深夜に足を運んでいるだろうか?でも「ないと不便」と勝手に決めつけ、開いてるのが当然だと思い込んでいます。

インドの哲学書を読んでみますと、インド人の思考でもっと大きな発明は「ゼロ(0)発想」とありました。ゼロがあるか「始め」があり、ゼロがあるから「終わり」が生まれた。単純なことですが、これは人類にとってすごく大きな「気づき」です。

雑談の中で、友人が「24時間営業の居酒屋って誰が利用するんだろう?」と投げかけてきました。そう問われると、わたしは利用したことがないので「むむむ」となるわけです。すると「いつ、片付けや掃除をしてるんだろう?」と友人は続けます。「そりゃ、特別なシステムで清潔を保ってるんだよ」と答えましたが、友人いわく「なら、閉店してからのほうが効率良くない?」と笑うのです。なるほど、いつしか日本人にはインドから伝来したゼロの発想を忘れ、エンドレスの渦中に生きているのかも知れません。

先日、所用で朝5時前のコンビニに入った時のことです。女性の店員さんと目が合ったので「おはようございます」と挨拶をしたらキョトンとされたのです。一瞬、外国人かな?と名札を見ましたが、日本人の名字でした。「いらっしゃいませ」は発しても「おはようございます」は出てこない。夜通し働いたその店員さんには「朝が来た」という感覚がなかったのかも知れません。

間を持つことが怖いということは「休む」という感覚を失ってしまうことです。密着、密接を避けて解放をしましょう……それこそ、ゼロを捨てて、始めと終わりを無くして休むことを忘れた日本人へと天からの警告ではないでしょうか。いろんなご意見はあると思いますが、わたしは「朝7時〜夜11時」とうたう看板に戻すほうがやっぱり健全なような気がします。

 

〇2年かけて、実際に四国88カ所をお遍路しながら収録した法話ラジオです。耳を澄ませば、季節を感じることも出来ますよ。耳からお遍路してみませんか?→ 『きくへんろ。

2020/03/21『真面目を笑う』

こんなときこそ……という言葉の使い方はどっちにも転びます。景気が悪いと嘆くだけではなく、ピンチをチャンスに変えられたらどんな窮地も面白くなります。

長年、落語家であり真言宗の僧侶である桂米裕さんとラジオをやっていますが、彼との絡みで心がけていることは、常に「真面目を笑う」ということです。

こう記すと「不謹慎だ」という人もいるかもしれません。でも別にふざけているわけじゃなく、発想を転換して面白いことを気づけば、モノゴトは明るい方向に向かう。それこそ仏教の説く「究極の楽しみ=極楽」だという発想です。茶化すソレとは一線を画します。

この時期は卒業式などで記念写真を撮る機会が多いのですが、先日見せてもらった写真をみて驚きました。写真にうつっている全員がマスクをしているんです。事情は察しますが一生残るのですから、このときくらいは外してもよろしかろうと。冗談ですが、これが目の部分だとかなりヤバい写真だよと失笑してしまいました。

それこそ、アプリの開発者は動画や画像に犬猫の耳や鼻を付けるものだけでなく、白いマスクに反応してかわいい口を付ける仕掛けをアップデートすれば、たちまち大変な話題になることでしょう。

しょうもない……と一言で片付けるのではなく、こんなときこそユーモアとアイデアに満ちあふれた珍品をどんどん世の中に出していく。これも1つの過ごし方、智恵の使い方でしょう。そういう視点で世相を見るとクスッと笑える余裕がたくさん潜んでいることに気づけますよ。

 

◎バラエティ法話番組 『拝、ボーズ!!!』新エピソード更新しました。今回は「お薬師さま」がテーマです。辛口かも知れませんが、ここだぞ!というポイントを説いています。ぜひお聴きください!→ http://www.haibozu.com/

2020/03/20『無観客試合に思うこと』

昨日、出先でとあるサービス業のスタッフと会話をしました。

「本社の方針によりマスクのままで失礼いたします」といきなりのご挨拶。それを受けてわたしは「それは理解できるけど、挨拶ならまずはマスクを外しなさい」と一言。賛否両論あるとは思いますが、礼儀というものは「方針」で変化するものではない。すこし社会が狂いはじめていますね。

さて、なんとも寂しい大相撲本場所が続いています。1人でも感染者が出たら中止……この物言いもすこし狂ってる。高校野球プロ野球も「もし感染者が出たら?」に怯えていては万全なプレーは出来ないだろうし、その1人になった人をケアするのだろうか。魔女狩りの如く……後世に語られることを防ぐ万全の対策ってあるのだろうか?

大相撲に関しては、千代丸関の意地が涙ぐましい。高熱が出てまず疑われて話題になってしまった。結果、陰性で相撲取りによくある感染症だったそうですが、それもかなりの重病にもかかわらず途中出場を続けている。高熱は下がった後に筋肉と関節を緩ませてしまう後遺症があるから、本当に無理をしないで!と願うばかりです。

話は変わりますが、無観客……この影響が星取りに如実に出ています。大きな力士、おとなしい力士に結果が出ているんです。ここでいう「おとなしい力士」というのは声援が苦手、観客の反応で萎縮するタイプのお相撲さんのこと。

反面、昨今土俵を沸かせてきた「小兵」力士が振るいません。これはやはり「声援」という観客の反応が後押しをしてきた結果でしょう。また元力士の解説にもありましたが、15日間相撲を取り続ける大変さにも今夏の騒動で気づかされました。中日を過ぎると体力・気力とも猛烈に下がってしまうのだそうです。そこで踏ん張れるのはやはり「声援」という後押しあってこそ。ここ数日で怪我人が出ないことを心より祈っています。

この大相撲開催において、さまざまなアスリート・スポーツはこの状況を吟味観察して先に活かすべきです。さまざまな心配が苦慮されますが、致命的な怪我で選手生命を絶たれては元も子もありませんからね。

 

◎今月も(3/22)も予定通り、福岡浄水通Flor-Jamにて「おはなし会」を開催します。こんなときこそ、目からウロコの法話をお楽しみください。→ https://00m.in/4aVc3

2020/03/17『息子と弟子の違い』

次男が大学進学のため、昨日(2020/03/16)上京しました。最後の大荷物をといて、組み立てるために私も初めて同行しました。とはいっても、男同士ですからほとんど会話はありません。

担任からは「無理だ」と言われた希望校に合格したのです。さぞかし希望に満ちあふれていることとは思うのですが……そんな微塵すら父親には見せません(笑)私も自分に置き換えたら、こんな学問は到底(当時の自分には……むむむ、今の自分にさえも)出来ないわけでただただ尊敬しています。なので「尊重」を大事にしています。

子育てなんて、何度も出来るわけではないので正解はないと思います。ただうちは男の子ばかりなので、早い段階で自立出来るような訓練だけはさせました。要は「寝る」「喰う」「出す」を何処でも出来るようにしただけです。あとは「我慢」です。寒くても雑巾がけと空手は止めさせなかった。頑張ったらご褒美を与えました。

それで好きな音楽や映画、ライブにも早くから足を運んでいたし、本も自分たちで買ってきて読み込むようになりました。最終的に親の仕事って「ほしいモノ、やりたいコト」を自分で見つける力を与えることだったんだなぁ……と今になって想います。

よく「跡継ぎは?」と訊かれます。大名の世継ぎでもあるまいし、寺に生まれたから跡を継がせようってのは、それこそ親の最大のエゴだと私は思っています。お寺に生まれただけでそれはそれで大変なプレッシャーはあったと思うし、嫌な思いもしてきたことでしょうしね。

親としては息子ですが、僧分の弟子ではないのです。親が子を超えることはあっても、弟子が師匠を超えることはまずない……それが私の持論です。この業界、お父さんやおじいさん、先代より立派な息子に出会ったことがない(爆)ですから、私が息子たちの師匠になることはありません。もちろん出家までのお手伝いはしますけど、私のような者を「超えられない」というのは小さ過ぎます(笑)

生まれたときから一個人……働き出すまでは応援もフォローもする。後は「自分でなんとかなさい」が我が家の家訓なんです。

2020/03/13『空調の捉え方』

わたしの周辺でもそろそろ講演会の中止や延期の話が出始めました。主催者がやりたくても、会場管理者や周辺の人たちへの配慮という理由が多い。ウイルスと共に世間体とも闘っている印象を受けます。また法話会などは「高齢者が集う」ことを心配しての英断も聞かれます。これも仕方ないことです。でもひとつ強く思うことは、そこに御仏のおかげ(功徳)は置いてけぼりじゃないか……という部分です。信仰の場は、如何なることがあっても先ずそれを語らなきゃなりません。

講演会の中止は「高齢者が多い」という理由が主ですが、わたしが思うに「密室……鉄筋建造物で窓がない空間で、過剰な暖房のうえ乾燥しきっている」という理由も入れたほうが良いのではないかと思います。法事や葬儀を行う法要ホールなどは、換気扇こそあるものの息が詰まりそうになるほどの密閉空間です。空調はあるものの、そこは人工的な「快適」を求めるだけで、それがウイルスにどう影響を及ぼしているのか?という点は見て見ぬ振りでしょう。

すこし昔の講演会(法話会)の風景を思い出してみます。今から20年前のまだのんびりしたものでした。田舎のお寺などで会は開かれる場合、木造宮建築に火鉢やストーブ、その上にはヤカンが乗ってコトコトいっていました。おのおの聴衆は、好きな所に座布団敷いてお茶をすすりながら思い思いの格好で話に耳を傾ける。夏は戸や窓は全開、お香より蚊取り線香の香りの中で、うちわを持って楽しんでいたものです。いま思えば、当時の説法風景はのどかで健康的でした。法事も葬儀もそうでした。

空調という言葉は「人が空気の調子に合わす」のか「空気(自然)に人が調子を合わす」のかで、ずいぶんその先は変わって来るような気がします。襖や障子、畳に木造……いまは不便に感じるでしょうが、それはそれで、除菌や抗菌にも効果的だったのではないかと思います。人間が考える快適、人工的なくつろぎというのもそろそろ限界じゃないかと今回の混乱を見て感じます。

◎この日曜日(3/15)は『第60回・くらしき仏教カフェ』です。いまに役立つ生きるヒントをお話しします。ぜひお運びください。→ 

hotoke.sun.bindcloud.jp

2020/03/06『ラジオの奇跡』

わたしはモノゴトの流れには同調って力が働いていると信じています。そのためには「見たいなぁ、聞きたいなぁ、知りたいなぁ」という好奇心を素直に発信し続けることかなと。だから、わたしの周りでは「たまたま」が善い感じで現れることが多い。朝一番でつけたラジオで鼻歌してた音楽だったり、待ち合わせ場所で開いた雑誌に長年知りたかったことが載っていたり……。

昨日は月イチのラジオ出演でした。満員電車に乗って岡山に向かいます。たった30分の電車がラッシュになれない自分には憂鬱のタネ。これさえなければ毎日でもやるのに……とブツブツ。でもその中でちょっとした予兆があるから面白い。

電車の中で聴いていたラジオで「あなたが1月に話してたことの通りになってきました」とパーソナリティとゲストが盛り上がっていたんです。「アハハ、予言者にでもなろうかな!」という言葉に「ん?自分が1月に言ったことってなんだろう?」と自分の番組をふと顧みたんです。

局について簡単な打ち合わせをしてそのままスタジオでマイクチェック。そのとき、ディレクターのイリちゃんが「こうゆうさんが1月に干支の通りに世の中が動くっておっしゃってた通りになってます!」と言いだし「むむむ……どこかで聴いたような……」とデジャブ感覚。

そのまま今月も面白い流れで番組も後半戦。最後の最後とわたしはすこし惚けて「人間とは人と人の間と書く」と金八先生のようなこと言いました。するとパーソナリティの森田さんがすかさず鼻歌で『人として』のイントロを口ずさみエンディング。

バカバカしい着地だったねぇ……と反省しつつ、撮影やら資料チェックやらをしていたら、10時からの(東京発信)番組の冒頭でいきなり『人として』がかかるではありませんか!? スタジオは悲鳴に近い驚きの声で大盛り上がり。その番組の男性パーソナリティは暴走気味に金八先生を語りまくり、その内容も私たちが数分前に喋ったことと同じだったという……こんな奇跡もあるんですねぇ、と語りつつ、次回はもうすこし高度な同調を意識しましょうと笑ったのでした。

◎昨日の番組をブログで読んでみましょう! FM岡山スタッフブログ『ウラモニ』↓

 

◎小さな人形が出来上がるまでの動画がアップされました。ぜひチャンネル登録を! 

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