2020/03/13『空調の捉え方』

わたしの周辺でもそろそろ講演会の中止や延期の話が出始めました。主催者がやりたくても、会場管理者や周辺の人たちへの配慮という理由が多い。ウイルスと共に世間体とも闘っている印象を受けます。また法話会などは「高齢者が集う」ことを心配しての英断も聞かれます。これも仕方ないことです。でもひとつ強く思うことは、そこに御仏のおかげ(功徳)は置いてけぼりじゃないか……という部分です。信仰の場は、如何なることがあっても先ずそれを語らなきゃなりません。

講演会の中止は「高齢者が多い」という理由が主ですが、わたしが思うに「密室……鉄筋建造物で窓がない空間で、過剰な暖房のうえ乾燥しきっている」という理由も入れたほうが良いのではないかと思います。法事や葬儀を行う法要ホールなどは、換気扇こそあるものの息が詰まりそうになるほどの密閉空間です。空調はあるものの、そこは人工的な「快適」を求めるだけで、それがウイルスにどう影響を及ぼしているのか?という点は見て見ぬ振りでしょう。

すこし昔の講演会(法話会)の風景を思い出してみます。今から20年前のまだのんびりしたものでした。田舎のお寺などで会は開かれる場合、木造宮建築に火鉢やストーブ、その上にはヤカンが乗ってコトコトいっていました。おのおの聴衆は、好きな所に座布団敷いてお茶をすすりながら思い思いの格好で話に耳を傾ける。夏は戸や窓は全開、お香より蚊取り線香の香りの中で、うちわを持って楽しんでいたものです。いま思えば、当時の説法風景はのどかで健康的でした。法事も葬儀もそうでした。

空調という言葉は「人が空気の調子に合わす」のか「空気(自然)に人が調子を合わす」のかで、ずいぶんその先は変わって来るような気がします。襖や障子、畳に木造……いまは不便に感じるでしょうが、それはそれで、除菌や抗菌にも効果的だったのではないかと思います。人間が考える快適、人工的なくつろぎというのもそろそろ限界じゃないかと今回の混乱を見て感じます。

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