2020/02/21『仙人・今貂子』

今回の京都の個展には裏課題がありました。それは京都で活躍中のディープな方々を私の作風でカタチにすること。中でも「太夫と禿」と「舞踏家・今貂子」は大きなテーマです。

太夫さんについては次の機会に語るとして、今日は今貂子さんについて綴ります。彼女との出会いは去年の6月、ちおん舎にて最初の個展を開いたときにさかのぼります。ちおん舎さんのお誘いで、お向かいにある土蔵の劇場にお邪魔しました。そのときの印象は以下の通りです。

 

昨日(6/13)の夕方、流石に「すこし疲れたなぁ」とぼんやりしていますと料理人の後輩が「夕飯はぜひうちで!」と嬉しい声がけをくれました。早速、二つ返事をしました。閉館まであと少しだなぁとギャラリーに座っていますと、オーナーさんが現れて「今夜ご予定がなければ『舞踏』はいかが?」とお誘いくださいました。ブドウ?不動?それは美味しいのか?

まさか個展初日の夜に、それも食事もせずに、踊りを観るなんて考えてもみませんでした。指定された時刻に会場を訪れますと、そこは『蛤御門の変』での大火で火事を免れた奇跡の土蔵でした。狭い空間にお客は限定8名。ほとんどが外国人でした。密室空間は真っ暗闇、巧みな照明と二階から奏でられる鈴や三味線の音色。浮かび上がる鬼気迫る演者、そして息遣い……。

なに?なに?どこをどう見ればいいんだ?

私は小さなパニックに似た衝撃の中にいました。同時に音や声を出してはいけない。身動きして雰囲気を台無しにしてはいけない。でも私はお客なんだよ!と、わけのわからない自問がグルグルと頭を巡っていました。鬼気迫るパフォーマンスを瞬きもせず、極限まで味わっていると、ふと「考えてわかることにだけ納得するなんて些細なことだ」「天も地も、生も死も、肉体も鉱石も、喜びも悲しみも、すべて考えてから湧き出すナニカではなく、体感から得るものなんだ」五感の穴が全開となり、精神の解放が無限となった時、そこに居る痛く心地よい「ナニカ」に包まれていました。

京都……やはり奥が深いです。日本……やはり密度が濃いです。間近で演者の吐息を観じ、自身はその一部となって溶け込んで古(いにしえ)の余韻をいただく。

昨夜は紛れもなく自身にとっての「解放」のひとときとなりました。とにかくオススメです。ぜひ「考えない」という快感に酔いしいれてくださいませ。

 

と、まあこんな感じで興奮したのですが、昨夜はこれまた違った感動が込み上がってきてなかなか眠れませんでした。まず季節によって空間の空気が違う。光の密度というか、色というか、冬ならではの妖艶さが素晴らしい。また前回は表情に釘付けだったのですが、手足の指先や身体バランスにも目を奪われました。あとはなんと言っても呼吸です。息づかいが運動量に伴うものではなくて、呼吸さえも演出なのだということ。ゼイゼイ呼吸を荒らすことなく、奥深く静かな吐息は無呼吸ではないかと思うほどのレベル。また、三味線との阿吽(あの空間でどうやって合わせるのかは会場でご体感を)、照明の絶技、そして時折織り込まれる異国のメロディ。嗚呼、(こんなに感動しているのに)どうにも説明ができない。それがライヴなんでしょうね。

終演後、クールダウンに立ち寄った焼き鳥屋で「今貂子は名人だろうか?」と自問。いや、名人はちょっと練習すれば成れる。なら達人か?いや、達人にはまだまだ先がある。超人?その響きには勢いとザワつきがあり相応しくない。あ、そうだ!今貂子は仙人だ。静かでいて妖艶で恐ろしく美しい……激しさに中に凛とした静寂の魂と肉体。これは魂魄……仙人の領域だ。てことは、あの舞踏館は仙人の住む崇高なる山の上、そういえば昨夜も霞がかかっているかの如くだった。
と、ここまで長々と語りましたが、要は私は「生ける仙人・今貂子」に魅せられ、その姿をただただカタチにしていきたいと思っているのです。